ゆだログ

なりたい自分に近づくために、どうする!?アラサーからのキャリアを考える。

詩という芸術

それは底面はもつけれど頂面をもたない一個の円筒状をしていることが多い。それは直立している凹みである。重力の中心へと閉じている限定された空間である。 

 

 これって何を指しているのかわかりますか?

 

それはある一定量の液体を拡散させることなく地球の引力圏内に保持し得る。その内部に空気のみが充満しているとは、我々はそれを空と呼ぶのだが、その場合でもその輪郭は光によって明瞭に示され、その質量の実存は計器によるまでもなく、冷静な一瞥によって確認し得る。 

 

 まだわからない。

 

指ではじく時それは振動しひとつの音源を成す。時に合図として用いられ、稀に音楽の一単位として用いられるけれど、その響きは用を超えた一種かたくなな自己充足感を有していて、耳を脅かす。それは食卓の上に置かれる。また、人の手につかまれる。しばしば人の手からすべり落ちる。事実それはたやすく故意に破壊することができ、破片と化することによって、凶器となる可能性をかくしている。 

 

ヒント、食卓に置かれる。

 

だが、砕かれたあともそれは存在することをやめない。この瞬間地球上のそれらのすべてが粉微塵に破壊しつくされたとしても、我々はそれから逃れ去ることはできない。それぞれの文化圏においてさまざまに異なる表記法によって名を与えられてはいるけれど、それはすでに我々にとって共通なひとつの固定観念として存在し、それを実際に(硝子で、木で、鉄で、土で)制作することが極刑を伴う罰則によって禁じられたとしても、それが存在するという悪夢から我々は自由でないにちがいない。

 

このへんで分かる人もいるかな?

 

それは主として渇きをいやすために使用される一種の道具であり、極限の状況下にあっては互いに合わされたくぼめられた二つの掌以上の機能をもつものではないにもかかわらず、現在の多様化された人間生活の文脈の中で、時に朝の陽差のもとで、時に人工的な照明のもとで、それは疑いもなくひとつの実として沈黙している。
我々の知性、我々の経験、我々の技術がそれを地上に生み出し、我々はそれを名づけ、きわめて当然のようにひとつながりの音声で指示するけれど、それが本当はなんなのか――誰も正確な知識を持っているとは限らないのである。

 答えは、

 

 

 

コップ

 

 

です。

引用:「コップへの不可能な接近」谷川俊太郎

 

つい先日この詩を知り、衝撃を受けました。

コップをこんなにも様々な切り口で見ることができるのかと。

日常にありふれている一つのアイテムを考えもしなかった表現で表せるのかと。

詩って、言葉の芸術だと。

一気に心を奪われました。

 

書きぶりからしてずっと昔からあってたいそうな価値のあるものなのではないか?と思い巡らし、途中で「コップか!」とわかった時の意外性がおもしろかった。

 

最初からタイトルを見てしまったら得られなかった感覚でした。

 

普段詩は読みませんが、衝撃を受け思わず谷川俊太郎の詩集をいくつか買いました。

子供の頃は詩の何がおもしろいのかよくわからなかってけれど、今は少しだけわかった気がする今日このごろ。